武将:太原雪斎(たいげんせっさい) |
大河ドラマに出演しているから もう名前はご存知ですよねぇ!?『太原』って書いて『たいげん』って読みます。私は”おおはら”って読んでました。(>_<) 駿河の庵原城(いはらじょう)城主 庵原政盛(いおはら まさもり)の子であり、臨済宗の僧侶でした。 今川義元は家督権が低く 幼少の頃に出家の身となり(注1)、雪斎は その教育係りとなります。 義元の父親が亡くなり→家督権の高い長男と次男、2人は同じ日に亡くなります。→義元は側室の子と家督争いの末 当主になります。 そこには、義元の母である寿桂尼(じゅけいに)や雪斎の”きな臭さ”を推測してしまいます。。 |
また、義元の歴史は雪斎の歴史だという事が伺えます。義元に家督権のチャンスが巡って来て 当主に成れた事,国を治めていった事,他国との同盟等々... 雪斎は軍師的な役割で活躍します。 後年、周りの嫉妬からか隠遁(注2)の身となり 死を迎えます。山本勘助や家康も「今川には無くてはならない人だ。」と哀れんだそうです。(注3) m(_ _)m |
(注1)今川義元は五男であり、家督権とは程遠い存在でした。昔は、家督争いなどを起こさぬ様に 家督権の低い人は幼い頃にお寺に出されてお坊さんになる道を強制的に与えられたりします。 (注2)隠遁(いんとん):俗世間を逃れ、隠れ住む事。 (注3)雪斎と山本勘助は縁戚関係であったと言う説が有ります。 また、今川家に人質となっていた家康も 義元と一緒に教育を受けていたとか、雪斎が失脚(隠遁)させられ、復讐の為に家康に色々と教え込んだとか,家康の才能を見抜いて教育したとの説も有ります。 家康は人質とは言え、牢屋に閉じ込められていたのでは無く、松平家が反逆を起こさない為に今川に預けられていた身。合戦では今川方で参戦していますし、元服(成人)の儀式のお祝いをして貰ったりしています。やはり 雪斎の教育を受けていた可能性もあるのでは? もし、教育を受けていなくても 合戦時の雪斎の指示の明確さ,的確さを 勘のイイ家康は感じ取っていたことでしょう! |
歴史探訪 |
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